熱気球ふれあい事業は、栃木県高根沢町を拠点に、自閉症などの発達障がい、知的障がいのあるお子様がいるご家族を対象に、ボランティアと一緒に熱気球とのふれあいを楽しむ活動を行っています。 このブログは実行委員メンバーが、日常での出来事、感じたこと等、勝手気ままに書き込んでいきます。
2011-04-15
高橋優 「福笑い」
『見えない・カラダとココロ』by.おのころ心平
心理学者のフロイトが指摘したように、
「顕在意識」と「潜在意識」の乖離(かいり)が、
個人の病を引き起こすとするなら、
自然災害も、私たちの人類の「顕在意識」と、
その背後にある「集合無意識」の乖離(かいり)の結果、
起こっていると考えることができないでしょうか。
僕は、個人の生命場が段階的に層をなし、
家庭の場や職場をつくり、
やがては人類全体で場を共有すると考えています。
シュタイナー教育で有名なルドルフ・シュタイナー(独1861~1925)
という人ががうち立てた「人智学(アントロポゾフィー)」によると、
人間は4つの層で成り立っているとされています。
ich
\ /
\ アストラル体 /
\ /
\ エーテル /
\ /
\ 肉体 /
同じような考え方は、日本の古神道にもあって、
こちらも4つのカラダを想定しています。
奇魂くしみたま
\ /
\ 幸魂さきみたま /
\ /
\和魂にぎみたま/
\ /
\ 荒魂 /
あらみたま
誰が測ったのか、こうした「見えないカラダ」の大きさは、
前後左右に8mもの範囲に及んでいるのだそうです。
そのように「カラダ」をとらえると、
僕らのカラダは、常に誰かと触れ合っていると言えます。
満員電車でイライラしてしまうのは、
ちょっと肩がふれるどころか、みえないカラダが、
いくつも折り重なっている状態になっているから。
いっしょに暮らす家族の場合なんて、触れ合うというよりは、
もう、ある部分で「見えない・カラダ」を共有しています。
「夫婦で似てくる」とか「ペットは飼い主に似る」とか言いますが、
親子はもちろん、家庭や職場を構成する個人の見えないカラダが
折り重なって、家庭の「場」、職「場」を形成しているのです。
そしてまた、この見えないカラダは、個人の領域を超えて
8m以上にも広がって行きます。
これは、いみじくもフロイトやユングが指摘した、潜在意識や
無意識・集合無意識といった「心」の層と対応しているのでは
ないかと僕は思うのです。
人類全体の深層意識
↑ ich/くしみたま
社会意識
↑ ↑
民族意識
↑ アストラル体/さきみたま
身近な共同体意識
↑ ↑
職場の意識
↑ エーテル体/にぎみたま
家族、親族の意識
↑ ↑
個人の歴史意識(潜在意識)
↑ 肉体/あらみたま
個人の現在意識(顕在意識)
+++++ +++++ +++++ +++++
---世の中、悲惨だ。
---何をやってもうまくいかない。
---政治が悪い、景気が悪い、(社長が悪い!?)
---こんな世の中、もうイヤだ!
僕らが個人的に抱く日常のこうした顕在意識の集まりは、
ひとつひとつがどこかに保管されて、
ある一定の意識の層を形成します。
そして、相応のエネルギーを持ちます。
一方で、人間は自分の生まれたほんとうの意義や社会への自己効力感
(自分の存在が役立っている!という気持ち)、
また、世の中の平和や調和といったものを願っていて、
その意識の層も厳然と存在します。
世の中を壊してしまいたい衝動と、
世の中を平和に維持していきたいという欲求。
こうしたあまりにベクトルの違う意識層が対立を始めると、
これは見えない世界での乖離(かいり)を生じさせます。
+++++ +++++ +++++ +++++
地球にわれわれのような意識があると考えてみてください。
一方で、地球も「こんな世の中なくなってしまえ!」と思っている。
でも一方で、自分自身の存在の「安定」を求めている。
このギャップは私たちが抱く個人の葛藤と同じように、
干渉波エネルギーを生み出すでしょう。
・・・自然災害とは偶発的に、突発的に、
僕らの意識とは何の関わりあいもなく起こるものでしょうか?
もしそうだとすると、人間存在とはなんと儚(はかな)く、
なんと無意味なものでしょう。
私たちの意識は、
世界のさまざまな現象に関与していないはずはない、と
僕は思います。
もちろん、ひとりの人間の自覚が及ぶ「顕在意識」は
きわめて狭い範囲です。
でも、個人が病気というサインから何かを学ぶように、
今回の震災からリアルに何かを学ぶことは、
これからの日本の再生にとって、すごく大切なことだと思います。
自分の潜在意識、その先の共有意識をもっともっと認識する人が増え、
それにひとりひとりがどのような気持ちで望むかによって、
きっと地球の意識に大きな影響を与えることができるはずだと思うのです。
このたびの震災で亡くなった方々から何かを学ぶためにも、
まだ生きている我々こそが、ほんとうのところ、世の中がどうなって
いけばいいのかをしっかり考えるべき時期なのではないか。
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